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日本の製造業において、創造力を駆使すべきコンセプターがあまり評価されてこなかったことについて少々詳しく述べてみたいと思う。
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日本の製造業は日本独特の農耕スタイルに端を発する労働集約的産業で成り立ってきたことは間違いない。300年間安定していた江戸期にそのスタイルを純化させていった。第19回 「日本の『勤勉革命』」で紹介した石門心学はその象徴で、勤勉な労働を宗教的行為まで昇華していった。この高度成長を支えた、石門心学は「考える人より、汗水たらして作る人の方が尊い」という労働倫理観を形成して低成長期になった250年後の現代の産業を歪めているのではないか?
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どうも、「あれこれ考えてアイデアを出すやつはただの評論家だ。みんなで一つの目標に向かって気合で頑張るモノづくりが偉い」、「仕様書を作るより、コーディング自体の方が正しい人間の労働の姿だ」このような“体育会系”の考え方が日本の製造業の現場には多いように思われる。
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加えて「出る杭は打つ」平等主義が厳然としてある。河合隼雄『母性社会日本の病理』によれば、母性原理はポジティブには、「母が子供を産み、保護し育てるように、全てのものを生み出して包み込み、養い育てる」という形をとり、ネガティブには、「母が我が子の独立を阻むように、対象を掴んで離さず、抱きしめ、呑み込んでしまう」という形となるそうである。母性原理社会は構成員の均質化を強要するのだ。皆が残業しているときに一人だけ早く帰りにくい、といった“空気”の威力は相当なもののようである。
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このような労働集約スタイルの倫理観と母性原理的均質の“空気”のなかではコンセプターの生まれる余地が少ない。第31回 「「枠」の設計者=“コンセプター”」で述べたように創造力に長けたコンセプターは子供っぽく夢見がちだ。映画『レッドクリフ』で描かれた諸葛亮孔明はじっと雲を眺めているだけだったり、筝曲を演奏しているだけだったりしている。司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公で日露戦争でバルチック艦隊を破った海軍参謀、秋山真之もまた、ポケットに入れた豆を始終ぼりぼりと食べていたり、ベッドに一日中寝転んでいたりという一風変わった人として描かれている。もちろん彼らの頭脳はフル回転しているのだが、日本の労働倫理観からすると仕事を怠けているように見えないこともないだろう。雲を眺める諸葛より、タフな軍事訓練に汗を流す関羽のほうが、正しい労働のように見えてしまうのだ。ちなみに日本での労働評価はずっと時間/努力/年功による報酬がされてきた。欧米の個人の能力/成果による報酬はしっくりこなかったからである。
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「0を1にするまでの過程にこそ、付加価値があって、それができる人に栄誉とサラリーが与えられる」、「1を100にするのはアウトソーシングでかまわない」、こういう価値観、倫理観に日本人は変われるだろうか?
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