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この“弁当型内的進化”は興味深いことに物理的サイズに依存するもののように思われる。例えば街、大型プラント、大型タンカーを垂直思考で深く進化させるというのはピンと来ない。『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン)(著)は盆栽、畳半、弁当、トランジスタラジオ、ウォークマンから一寸法師のような小さなヒーローの存在に至るまで、日本人が畳む、寄せる、詰めるという行為を歴史的に育んできたことをつまびらかにした好著である。例えば、扇子というのは実に精巧に作られていて、手のひらに収まる心地よさを持っているが、団扇を中国から輸入して、畳む美学で扇子の構造にコンパクトにしてしまったのは日本のオリジナル発明なのだそうだ。面白いのは日本語の「の」が象徴的だという解説で、例えば石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」のようになぜこのように「の」を反復させるのか?という疑問に対して、大海→小島→磯→白砂→蟹→涙の一滴、という具合にどんどん縮んでいく意識構造なのだ、と説明していて興味深い。筆者は李のいう”縮み志向”は垂直思考=母性原理の”包む””同化する”機能と意味が近いように思われる。
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「小さいもの」が善いものであるという主張で思い出すのは、やはり有名な枕草子、第百五十一段「うつくしきもの」 だ。かなり古くから日本人の感覚として浸透してたことをうかがわせる。
うつくしきもの、 うりに書きたる児の顔。 すずめの子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎてはひ来る道に、いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は 尼そぎなる児の、目に髪のおほへるを、 かきはやらで、 うちかたぶきてものなど見たるもうつくし。 大きにはあらぬ 殿上童の、 さうぞき立てられてありくもうつくし。をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。
ひひなの調度。 はちすの浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。 葵のいと小さき。何も何も、小さきものはみなうつくし。 いみじう白く肥えたる児の、二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるが、はひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着てありくも、みなうつくし。 八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし。 鶏のひなの、足高に、白うをかしげに、 衣短なるさまして、 ひよひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また、親の、共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。
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『「縮み」志向の日本人』では「なぜ日本人は小さいものを好んだのか?」はあまり説明されているとは思えない。このあたりを筆者なりに考えてみたい。第14回 「母性原理が支配する日本」において、「禅の究極は二項対立的な見方の排除であり、例えば主体と客体の一体化」であると書いた。母性原理の特徴は主客を分離しないで融合してしまうことなのである。日本人はモノに共感し、我彼なく、「対象に棲み込む」「内在化」能力が高いといわれている。つまり、機械を人格化(人とモノを分離して考えない)する傾向があるのだ。そこで何が起こるか?対象への感情移入である。「その事物に内在することによって、意味ある全体が見通せる」( 『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー)という暗黙知の隠れた能力を発揮できるのである。
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このような対象の人格化に関しては『オタクで女の子な国のモノづくり』川口
盛之助(著)でも、日本には針供養などモノを擬人化する文化が数多くあることに触れている。小惑星探査機“はやぶさ”が帰還してきたストーリーも、日本人にかかると苦難を乗り越えた健気さ、という擬人化、感情移入がされてしまう、といった具合である。このような主体を一体化できる能力、機械に人格を与えてしまう(擬人化)カルチャーが、日本のアニメ、マンガ、ゲームソフトの高い創造性を支えていることは疑いようも無いだろう。
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このような主体を一体化させることのできる客体はどんなものか?はやり等身大以下の擬人化できる程度のものではないかと思われる。巨大で”想像に余る”システムはなかなか内在化ことができない。『木を見る西洋人 森を見る東洋人』リチャード・E・ニスベット(著)に「西洋文化というものは対象を切断して小さな要素に素因数分解し、個々の本質を見極めるのに対して、東洋では個々に本質など無く、すべては要素間の関係性によって本質が浮かび上がるのだ、と考える」とある。東洋の母性原理のもとでは対象は分割できないのである。”想像に余る”ものは手に余るのだ。
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このように機械と人の境界は混然となっており、日本人の科学~工業に対する姿勢は感情を伴わざるを得ない。『春は鉄までが匂った』小関智弘(著)は優秀な旋盤工だった著者の随筆だが、無機物である素材の金属との情緒的交流のようなものが描かれている。日本人にとって、たとえ鉄のような無機物であっても内在化ができるというのはさほど驚くことではないだろう。
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『日本近世における聖なる熱狂と社会変動』遠藤 薫(著)に収められた「日本文化における人工物観 時計技術はなぜ人形浄瑠璃を生んだか」 が面白い。時計技術は西洋では計時の道具(構成技術)であったが、それが日本に入ってきた後にカラクリ人形(表現技術)に時計の技術が転化されてしまったという。遠藤によれば、日本の技術観の背後に「超越的神の不在」があるという。神の代替する「美」への憧憬が、技術を構成技術でない表現技術にしている、とのことだ。また、欧米の物語に登場する人造人間はフランケンシュタインからターミネーターに至るまで人間に対して敵対的に描かれる(ピノキオという例外もあるが)のに対して、日本のそれは西行の時代から鉄腕アトムまで人間に親和的だ。これは人間の罪を代わりに背負う人形(ひとがた)の延長のようだという。西洋は人工物というものは人間社会へのリスクとして分離独立しようとするのに対して、日本では自己の延長として同化してしまう。原発で明らかになったリスク管理意識の低さはこうした人工物観の違いもあるかもしれない。
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このような情緒的科学観は西洋の理論的科学観と少なくとも高度成長期までは「衝突」することがなかったため、明治期に近代技術が驚くべきスムースさで導入された。ところがここに来て『ものつくり敗戦』(木村英紀著)が指摘するように、また原発事故が象徴するように、綻びが見え始めてきている、ということなのか?
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