第33回 三国志に見る司令官(リーダー)と参謀(コンセプター)の分業体制
- 魏・呉・蜀の三国が三つ巴になって覇権をめぐる熾烈な争いを描いた歴史とその伝承でつとに有名なのが『三国志』だ。特にノベライズされた『三国志演義』の方は登場人物がコントラスト豊かに描かれており、実に魅力的である。その高潔な人柄で心身掌握にすぐれた劉備玄徳、劉備が三顧の礼で迎えた超人的知謀を駆使する諸葛亮孔明、無敵の武術で秀でた関羽・張飛といった具合である。
- ここで描かれる役割分担は実に鮮明である。劉備は司令官、組織の長(リーダー)として人心を束ねることと最終判断に集中している。戦略に関しては参謀(コンセプター)のプロ、諸葛亮に全幅の信頼をおいており、理想的な分業体制と言える。プロイセンで発案された近代軍隊組織どころか、2-3世紀の昔よりこの分業は成立していたのである。おそらく、戦争というミッションクリティカルな行為の最前線にあっては、このような分業こそ最強のチームビルドの条件であり、戦国時代を勝ち残る条件であるという経験則がすでに成立していたのだと思う。
- これまでの日本の製造業界を見る限りにおいて、司令官(リーダー)とは「目的追求行為のプロ」であるべきだという認識はほとんどないように思われる。そして、それを補完するべき参謀(コンセプター)という職種は無きに等しいものであるように思われる。どうしてこのような現状になってしまったか?
- 第11回 「シンプルだった技術の未来予測」で述べたように高度成長期の製造業は技術的観点で“安心して頼れる一次元の善の方向”があったため、羅針盤なし、参謀不在でもなんとか組織の方向性を打ち出せた、と言えるだろう。
- また、第14回 「母性原理が支配する日本」および、第18回 「タテ組織による序列形成」で述べたように母性原理社会では、指導者としてのリーダーシップが不在でも、うまく社会が機能したということが言えるかもしれない。
- ようするに、日本の今までの産業は「戦争状態」になったことがないのだ。 三国志で例えれば、高度成長期の日本では、劉備はいるかもしれないが、関羽・張飛の調整役としてのリーダーだ。コンセプターの諸葛亮はいない。しかし“安心して頼れる一次元の善の方向”が見えたので問題はなかったのだ。関羽・張飛らはとにかく昼夜を厭わず勤勉に働くので成功を収めることができた。
- しかし、高度成長期が過ぎ、低成長時代になった日本ではどうか?世界がフラット化し、企業活動が国境を越え、メガ・コンペティション、「戦争状態」になった。いままでの“安心して頼れる一次元の善の方向”がなくなり、どこへ自分たちが向かったらいいのかわからない。そんなときに必要な参謀、コンセプターの諸葛亮がいないのでよい策も出ない。自分には技量があると関羽・張飛らが腕自慢してみても、それは情緒的な自己満足にしか過ぎない(モノづくり神話)。こんな例えは悲観的過ぎるだろうか?
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