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前回で述べた企業の中に持ち込んだイエ・ムラの概念。高度成長期はこれがよく機能し、経済発展の原動力となった。有能な社員もできない社員も平等に終身雇用や逓増する賃金を与えられ、会社は社員を守った。まさにイエ・ムラ的な、母性原理的なコミュニティであったのだ。そしてこれは重要なことなのだが、心のよりどころとしての宗教を持たない日本において、企業の成員であることはほとんど唯一のアイデンティティであり、心のよりどころだったのである。
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その磐石であったはずのコミュニティが、経済の成熟期を向かえ、そのうえ世界のフラット化に直面し、変わってきた。終身雇用は事実上崩壊し、賃金は上がらない。平等さが崩れ、能力主義が導入される。これらは欧米の合理主義、父性原理の導入ともいえるだろう。性急な父性原理の導入は「心のよりどころとしてのコミュニティとしての企業」を根底から変えてしまっている。「個」の確立した父性原理の国民性を持つ人々と異なり、イエ・ムラに裏切られ、追い出されることは、場の倫理、母性原理で生きている日本人にとっては大変な打撃に違いないのである。このことを忘れて性急に欧米の制度を導入するのは危険ではないか?母性原理社会をふまえたうえでの心のケアがおそらく必要なのではないか?
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企業にイエ・ムラ型コミュニティの役を押し付けているのはもはや限界がある。われわれ日本人は企業に代わるコミュニティを作らなければならないのは間違いない。最近人々が夢中になっているネットワーク・ソーシャル・コミュニティはその役割を担えるのか?この論点は日本の製造業を論じる点からは少々脱線になるのだが、もう少々書いてみたい。
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1984年に発行された「ネットワーキング」( J.リップナック)という本がある。この本にはネットワークが新しいもうひとつのアメリカ(コミュニティ)を作るというバラ色のシナリオが描かれている。ネットワークを使うことによって、新しい個人主義、自由社会、小さな政府、自由自在なコミュニティの新設が現実となる、と。たしかにオープンソース社会の互助の精神は、ネットワークの力そのもので、新しい知の活用を見出すことができた。古い日本の『結』を連想させるものがそこにはある。あたかも新しいコミュニティの発生動力源のようにも見えるのだ。しかし、一方でネットワークは「本物のコミュニティ」を壊す主因にもなっているようだ。
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そもそも「コミュニティ」という言葉は気安く便利に使われているのだが、社会学におけるコミュニティは「安心してわが身を預けられる集団」ということになっている。ゲマインシャフトと似た概念だと言えるだろう。なお、ジクムント・バウマンによれば、コミュニティとは「価値や主義が人の寿命より十分長い時間変わらない集団」でなければならない、とされている。
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コミュニティの変質は「情報入力」によって起こる。柳田國男が分析した「都会生活への憧れ」が面白い。柳田によれば、家の構造が変わり、障子やガラス戸になったことで、井戸端に集まっていた家族が、各々の部屋(間仕切りを可能にしたのも採光の変化)で本を読むようになり、自我が芽生えたから都会へ出るようになった、とのこと。非凡な観察眼だ。このように、中と外の情報の差がない現代でコミュニティを維持することは大変なことのようだ。「コミュニティの統一性は他の世界に住む人々とのコミュニケーションを遮断することに基づくものである。」「外部からの情報が内部の情報を上回るネットワークは人をコミュニティから離してしまう。」(ジグムント バウマン)
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ネットワークが人知を超える接続能力で世界を拡張することで、かえってコミュニティはほどけて分解してしまう。そのうち世界中でコミュニティは絶滅危惧種になっていって、その傾向は歯止めがかからないだろう。
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もともとトマス・ホッブスから始まる近代の自由主義では、社会を構想するうえでの基点は、自由な個人であるべきだとされている。共同体は解体されるべきであり、自由な個人の契約として社会は成り立つべき、という社会構想である。また、伝統的価値の優越性を認めず、価値は諸個人の自由な決定に委ねられるべきであるというものだ。アノミーの概念を提唱した社会学者のデュルケームは、個人の無制限な自由がかえって当人を不安定にすることを問題とした。「近代的個人主義は、人々の解放の動員でもあり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任を持ち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。」(ピエール・ロザンヴァロン)現代人はこの二律背反の中にいる。
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これらの欠落・不安を補完するのは何だろう?情報におけるラッダイト運動、情報におけるアーミッシュ化のようなものが起きるのではないかと想像してみる。「適度な情報の隔絶」を社会的・技術的に再発見していくことを試みる時期が来ているのかもしれない。
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