2013年1月30日水曜日

第15回 父性原理が推進したモジュラー設計


l         話をここで製造業へ戻してみたい。第6回でデジタル化がモジュール化の起爆剤になった話をしたのだが、製造するアーキテクチャを『すり合わせ(インテグラル)型』と、『組み合わせ(モジュラー)型』に分類する議論が昨今にぎわっている。

l         デカルトの二元論から始まり、『システムの科学』(ハーバート・サイモン)を経て、『モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質』(青木 昌彦)や『日本のもの造り哲学』(藤本 隆宏)で語られているように、組合せ型は複雑なシステムを単純化し、手におえる形にして料理する手法だと言える。一方のすり合わせ型は作り込みといった最高の性能を追求するのに適していて、その追求が日本の製造業の競争力の源泉であるという論調があった。

l         すでに気が付いている方も多いと思うが、欧米で進化してきた組合せ型に見られるモジュール化というものは、まさにデカルトの二元論から始まる「切る」「分ける」父性原理から生まれていると思われる。一方のすり合わせ型はまさに母性原理の「包む」「取り込む」機能そのものだ。自我構造の違いに立脚しているくらいなので根が深いのである。

l         『木を見る西洋人 森を見る東洋人』(リチャード・E.ニスベット)という本がある。西洋人(父性原理)では森は木の集合体なので、木は森の本質を持っているという見方をする。これに対して、東洋人(母性原理)は木に分けてしまうと森の本質が失われるという見方をするらしい。「自分の人生を自分で選択したまま生きる」と、「世の中から切り離された私は存在しない」という自我構造の違いが、事物を分析的に見るか、包括的に見るかの相違を作り出すらしい。そして、東洋人(母性原理)は論理よりも結論の典型性や望ましさを優先する傾向があるとしている。

l         西洋(父性原理)では対象を切断して小さな要素に素因数分解し、個々の本質を見極めるのに対して、東洋(母性原理)では個々に本質など無く、すべては要素間の“関係性”によって本質が浮かび上がるのだ、と考えるようである。たとえば西洋医学では病気というものは身体のどこかの部品の故障であり、それを直せばよいと考える(対症療法)のに対して、東洋医学では病気は体全体のバランスが崩れた状態であり、どこか一か所の問題ではないと捉えるのに似ている。

l         すり合わせ型アーキテクチャの特長は、まさにその“関係性”の作りこみだ。特にメカ(機械)の入るシステムは“関係性”の宝庫であった。テープレコーダーなどは最もたるもので、テープのヤング率、張力、モーターのトルク、テープガイドの配置、ドラムが巻き込む空気、磁気ヘッドの突き出し、すべての要素が「あちらを立てればこちらが立たず」の“関係性”のメッシュの中にあった。そしてそれは門外不出の企業内ノウハウになりえたのだ。

l         『対話する家族』(河合隼雄)にこんな記述がある。「欧米は近代になって、心と物を区別する思考法を確立し、それによってまず「物」の研究を発展させたが、続いて『心』の研究もするようになった。これに対して日本では心身一如などというように心と物の境界を明瞭にせずにきたが、欧米に自然科学に魅せられ、それに続けと努力して『物』の研究に成果をあげてきた。しかし『心』だけを取り出して考えるのに、まだ抵抗を感じているのだ」。現状は米国型市場原理主義の押し出す組合せ型が優勢な状況であることは確かであり、競争戦略的には無視できないわけだが、西洋においても東洋医学が見直されているように、お互いに良いところと悪い所があることは認識しておく必要があるだろう。日本人には「物」と「心」が思いのほか近い。時に憑依という一体化を遂げる。人形文楽などはその典型だろう。これは実は日本の最後の強みになりえるはずだ。ここは後ほどもう一度触れたいと思う。

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