わが某電機メーカーもご多分に漏れず、グローバルな人材に門戸を開いており、近頃は職場に日本国籍ではないエンジニアもちらほらと在籍するようになってきた。そんな中の一人のエンジニアが先日、筆者にこう言ったのである。「日本に来て、最も理解できなかったのは『頑張れ』、『一所懸命やれ』といつも言われることでした。」と。
「えっ!?」と思いましたよ、それを聞いて。だって彼が感じた違和感が全く理解できない、という違和感があったから。「一所懸命頑張る、のどこが悪いんじゃい」とね。
でも、なんだか魚の小骨がのどに刺さっているような釈然としない気分が残ってた。そういう気分になるときには、なにか本質的なことが隠れて見えなくなっていることが多いんだよね。
それで具体的に考えてみたわけですよ、ある日上司(日本人)が彼(外国人)のところにやってくるシーンを。
上司(日本人):「どう?ちょっとうまくいってないようだが一所懸命やってる?」
彼(外国人):「・・・・はい・」
上司(日本人):「だはは!まあ頑張れや!」(と彼の肩をポンと叩いて去ってゆく)
彼(外国人):「?」
この会話を「業務指示」という側面で見ると情報量が全くない事がわかる。上司(日本人)は遅れている彼の業務に関して、なにをどうやるべきかのWHATもHOWも言っていない。まあ、具体的、実質的な何かというよりは情緒的な領域に属するものなのだ。成果主義的なアウトプットのために、「一所懸命」「頑張る」ことがほとんど何の効力もないことをわかっていても、どうもわれわれは無意識にこの「一所懸命」「頑張る」をあたかもそれが万病に効く特効薬であるかのように口にしてしまっているようなのだ。
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