2013年2月27日水曜日

第20回 労働集約型産業の歴史



  • 前回に書いたことをおさらいすると、まず日本の風土に根ざした農耕があった。それは北限近いイネを春から秋の半年間でやり遂げる時間的制約と、狭い平野部をやりくりする空間的制約との相乗作用で日本独自のスタイルになったと思われる。それは宗教的性格を帯びるほど労働力の投入を強いるものだった。しかし、その労働は経済的モチベーションがともなった。こうして、外乱のなかった江戸期に大量かつ優秀な労働力が培われたと言われている。
  • さて、明治維新に「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」が提唱されたのは皆さん教科書でご存知だと思う。お手本は欧米。これが現代にも引き続き精神的な影響を与えていることはなんとなく感じられるだろう。この維新での性急な変革は内発的に起こったものではなく、半ば強制されたものであった。欧米のカタチは輸入できてもやはり魂の部分は日本のままであったようだ。前回に述べたように欧米では資本集約・労働節約型産業革命が、逆に日本では資本節約・労働集約型なのである。
  • 明治期の輸出品は生糸であったが、これは過酷な女性労働によって支えられた典型的な労働集約的産業だった。まさに「みんなで」「一所懸命」「頑張る」スタイル、江戸期に培われた日本の稲作スタイルそのものをそっくり第二次産業へ応用したということなのである。日本人は海外から文化を輸入するが、すべて都合のいいところだけをもってきて、中身は日本流に書き換えてしまうというのが得意だが、工業化もまた、この換骨奪胎、断章取義のやり方でスタートしたのである。
  • 下図は日本の産業推移と企業形態を示したものである。ここで言いたいことは、江戸期の稲作のスタイルの2つが戦後の企業へ連綿と受け継がれたということである。一つは先に書いた「みんなで」「一所懸命」「頑張る」宗教的とも言える労働倫理観である。二つ目は、天皇を親とする国家主義や、家父長制の崩壊によるイエ・ムラ共同体だ。
  • 第18回 タテ組織による序列形成で触れたように、母性原理による家族的情緒的共同体はイエ・ムラが崩壊したあと、その宿り先を探し、なんと企業にその安住の地を求めたのだ。ゲマインシャフト化したゲゼルシャフトという奇妙なものが出来上がった。みな自分の会社のことを「ウチ」というはずだ。これは自分が内側に所属しているという意味である。すなわち、イエ・ムラのことなのだ


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