2013年1月30日水曜日

第14回 母性原理が支配する日本


l         前回で書いたように侵略もなく、人間として住みやすい“母なる自然” に抱かれている日本人はそうした環境になじむエートスを獲得していく。ユング心理学者で晩年は文化庁長官に任ぜられた河合隼雄は以前から日本の文化を母性原理に基づくもの、欧米の文化を父性原理に基づくものとして対比させ、そうした日本人のエートスを説明しているのだが、これが実に絶妙であるので紹介したい。念のために言っておくと、心理学でいう母性原理/父性原理は女性らしい/男っぽい、といった性差には全く関係がなく、母性原理は平等、情緒的、父性原理は競争、統制などを象徴的に意味している用語なのでご注意を。

l         下図は河合隼雄『子どもと学校』(岩波新書1992)のある表を元に作成したものである。一つ一つ見ていくと母性原理のほうに日本人らしさが垣間見られると思う。場への所属とは「場の空気による支配」のことだし、人間を絶対的平等で観ることも腑に落ちる。コミュニケーションが暗黙知というのも会社の仕事の進め方を見ていて実感する。能力が平等であるという前提が、「一所懸命」「がんばって」「努力」すれば同じ成果が得られるのだ、という世界観の元になっているのである。また、一方の父性原理を見ていくと、90年台を潮目に世界を席巻している米国型市場原理主義はまさにこちらのルールでドライブされていることがよくわかると思う。


l         父性原理の基本は「切る」機能だそうである。「切る」とは何か?対象を機能分割可能だとみて分けてしまう。神(聖)と人(俗)を分ける、善と悪を分けるといった具合。デカルトはガリレオ・ガリレイの宗教裁判を見てこれはたまらん、と精神と物体を分ける「二元論」を展開し、これによって西洋は自然科学を前進させたと言われる。出来の悪い子は勘当、ノルマを達成しない社員はリストラ。こうした環境では規律と契約によって物事が進む。その結果きっちりと「個」が確立するわけだ。弊害としては白と黒に分けないと気が済まないがゆえに、いわゆる正義と正義の衝突=宗教戦争を起こしやすい。

l         それに対して東洋に多いと言われる母性原理は「包む」。母なる大地に包まれて、PLAN AでもPLAN Bでも「どっちでもいいじゃん」といっしょくたにする。出来の良いのも悪いのもみな同じ腹を痛めた子どもである、社員は家族だから助け合おう。そんなことで、責任は個人ではなく集団責任になり、あいまいに。最大の問題はその同質性、平等性を重んじるがためにその「場」の持つモメンタムを壊せない、つまり「空気」に「水を差せない」ということが頻繁に起こることである。道教のシンボルに太局図というものがあるが、善と悪などはお互いを取り込んでいて不可分であるということをひとつの円環として表現している。禅の究極は二項対立的な見方の排除であり、例えば主体と客体の一体化であると言われるようだが、まさにこの太局図はそんな東洋的なものの見方をよく表していると思う。


l         この違いは河合隼雄によれば、自我構造の違いということになる。自我は自と他を区別するものであり、日本人(母性原理の民)は「無心」「無我」といった価値観にあるように自我が希薄であるという。日本語においてよく主語が省略される事に関連付ける研究もあるようだ。これは、自我を滅することが結果的に自己を守る結果につながる(ゲーム理論的に言えば利得の高い行為だった)ということなのだそうである。

l         例えば、議論して多数決をとるという民主主義の考え方も、父性原理的な思考は「おれはこう思う、でもみんながそう思うなら意見は違うけど従おう」なのに対して、母性原理では「おれはこう思っていたが、みんながそう思うなら、おれの意見をそれに変えよう」になる。母性原理社会に民主主義は本当の意味で根付かないのかもしれない。

l         河合隼雄の本に、西洋と日本でフェアネスの考え方がまるで違うことに驚いた話を紹介されていた。氏はスイスに留学してスイスの小学校に落第があるのを知ってびっくりするわけだが、スイス人は「それぞれの学童の学力に応じたコースが用意されている。とても“フェア”だ」と感じていると知ってもっと驚いていた。日本人は「それぞれの学童の学力が違っていても、同じように進級できるのがフェアでしょ。だって、かわいそうじゃない」と多くの人は思うだろう。そう、フェアネスの意味に「公平」と「平等」の差があるのだ。「機会平等」と「結果平等」の違いと言ってもいいだろう。

l         このように、父性原理はとてもドライで論理的なのに対して、母性原理はウエットで情緒的なのである。そして、お互いに心や体の深いところ(もしかしたら遺伝子のレベル)で相手の価値観を許容できないように思える。

l         日本の組織では重大な決断に情緒が入り、それが大きな蹉跌となることが多いと言われる。野中郁次郎の『失敗の本質』にも、有名なインパール攻略作戦の「失敗」が記述されている。指揮した牟田口陸軍中将は、作戦が失敗することを諫言した参謀の意見を聞かず、「男子の本懐このうえない」というなんとも情緒的な理由で決行。その結果失敗し、投入した兵の9割、7万人の死者(しかも病死、餓死が大半)を出した。おそらく欧米ならロジックの通らない主張は却下されるであろうが、母性原理の世界では情緒はロジックを超える説得力を持つものらしいのである。

l         「日本倫理に義理ありて、西洋倫理に義務あり、義理は情的倫理にして私的なり、是に反して義務は理的倫理にして公的なり。義理は情愛に富むも不公平なり、義務は不人情の如くに見えて公平なり。義理は家族的道徳にして義務は国家的道徳なり。義務の観念に薄くして国政は永久に持続し得べきものにあらず。」これは明治に日本人もグローバル人たれ、と主張した内村鑑三の言葉であるが、情緒とロジック、フェアネスの理解の相違をよく表した文章だと思って感心する。そして、その内村の懸念は100年以上たった現代の日本に、まったく変わらず存在している。

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